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ノーラン映画と日本の漫画は人物と背景の演出(構図)が同じ このエントリーをはてなブックマークに追加

前から何となく思ってたけどダークナイト ライジングを見て思ったノーラン映画の見やすさや格好よさって日本の漫画に近いな、と思った。
背景が白く、あるいは手抜きとすら言われることもある志村貴子川原正敏作品と同じ印象を受けた。

ノーランの場合には、大画面かつ高画質で緻密な映像を好みながら、広角な構図が多く、また人物が被写体の場合に徹底的に被写体以外の人物を排除し広角でありながら被写界深度が浅く感じられる過剰に奥行きあるセットの背景ボケ、被写体しか存在を許さない徹底した感じが漫画のコマっぽく、それがどのカットでも奇麗に格好よく(気障ったらしくw)見える理由、徹底した省略(抽象)の指向が映画というより漫画に近い、と漠然とだが思った。
もちろん、人工的で無機質でありながら広大で自然を感じさせる独特な美観の美術自体の功績もある、作家や作品や漫画や映画だろうが被写体の明確性こそが基本なのだけれど。

少し話が違うが、いつだったか話題になったfate/zeroの背景がまんまダークナイトを今振り返ると、当然の流れかと思う。
アニメ(漫画)というのはキャラクタがいる空間(背景)が狭くても壁など某かの距離を無視した演出というのがいくらでもできる。
1人しかいられない狭い場所でも、手や足をのばせたり2人以上をおさめたりと撮影を含めた物理的制約が無い。
昔のゲームだと人物と背景の縮尺が明らかに異なるが違和感ない抽象化演出だったりもしたし。
アニメではよくある手法だが、静止したカメラに向かって人物が奥から手前に移動してるのに、人物は大きくならない、また背景とカメラの位置関係は変わらないのに背景が微妙に拡大縮小してる、など。自分が具体的に思いつくのはサムライチャンプルー日高のり子がムゲンと戦い走る場面や、イノセンス竹中直人が独白するところ。
ノーラン映画が古典的でありながら今風に見える理由は、つまり漫画やアニメやゲームでおこなわれてきた縮尺など物理的な障害を無視した人物と背景の対比を実写で再現、あるいは応用したらどうなるか、というマルチメディアが最初から前提である世代の発露(結実?)だから、なんてことも考えた。
当然ながら、ノーランが娯楽作品の何を見てるかなど自分は知らないのだけれど。

ノーラン映画ではないが、そういった嘘をはらみながら、空間の制約を逆手にとったのがリミット(Buried)なのかな。
この作品は過小評価されてると思う。低予算でありながら、と言われてるけど、スタッフも機材も1流だし、設定上は同じ場所でありながら視覚効果を得るために、演出意図にあわせたセットを複数組んでたり、ロケが無く登場人物が極端に少ない、という特徴がありながら「低予算」自体が売りではない1流の娯楽作品だと思う。

前に少ない資料と結論ありきで書いたアメコミの背景は日本の漫画より凄いのか?と絡めて何か考えてみようか。
また、娯楽作品における「ただ走る」という格好よさについて記事を書きたいので、空間という意味でそこを絡めても面白いか。
ノーランの映像がどうして何となくだが洗練され格好よく見えるのかを具体的に分析した秀逸な記事って無いのかな?

映画 [ 2012/12/13 17:55 ]


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